松前屋の歴史

明治・大正時代

明治45年
「松前昆布本舗」(株式会社 松前屋の前身)を創業

大正6年
商売の憧れの地「心斎橋」へ出店

昭和初期~

~初の百貨店進出~ 戦時中の苦労年

昭和の初め頃は、店の上に丁稚や社員を置いて、10数人で運営していました。工場は、店舗の裏にあり、2Fでは「おぼろ」や「とろろ」昆布をつくり1Fで販売していました。

昭和5年には天皇・皇后の天覧を賜り、昭和12年には、松坂屋(名古屋)へ他の会社4店と出店。順調に事業が伸びていったようです。

しかしながら、昭和14年に、社長が他界。その後日本は戦時下になり、統制経済で社員は戦地に召集され、終戦間際には店が焼かれ、松前屋は全く運営ができないような状況となってきました。

二代目社長 松村アヤメ奮起

昭和14年、先代の社長が他界してから、戦後の再起をかけて「松前屋」を支えてきたのは、松村アヤメ(現社長の祖母)です。若干33歳の若さで二代目社長に就任。特長のある髪の結い、指をくりくりまわし、店にちょこんと座りまさしく松前屋の看板的な存在でした。

アヤメさんは、芸能・観劇にも理解がありました。そういう交流の中から逆に、アヤメさんのファンという芸人も多かったようです。

TVCMも大阪テレビ放送(朝日・毎日と分裂する前から)の時代から取り組んでおり、まさに宣伝・広告の大切さを知っていた先見性のある経営者でした。

今でも心斎橋の本店では、アヤメ人形がお客様をお待ちしています。

昭和25年
株式会社組織にし、「株式会社松前屋」とする。

戦後~

百貨店への本格進出

アヤメさんは、店の顔。松前屋の顔。売上を上げていくためには、販売規模の拡大が重要でした。それを担ったのは、会長の松村 勉と前社長の藤井 昇でした。おりしも戦後ののれんブーム。大阪の百貨店進出第一号は、松坂屋日本橋店(現 高島屋東別館があるところ)です。百貨店では、同業者が隣に並びます。当時は、毎日他社の売上がわかり、「勝った」「負けた」とライバルを意識していたのです。そこでは独立店では味わえない競争心が芽生え、「いいものを売っていたら負けない」という今日の松前屋のスピリットが培われました。

松前屋を根底から支えるものは「味」「商品」

工場には松前屋を支える「昆布の味」を守っている職人がいます。先代工場長・岸本、現工場長の酒井が頑固にまた謙虚にこの老舗の味を守り、進歩させています。前社長の藤井は、この原点である工場を拠点として、日々指導をしてきた1人です。「味」「商品」がぶれない。これがメーカーの原点だと感じています。

究極の逸品

昭和29年に真昆布天然物の逸品「とこわか」が完成しました。とこわかは漢字では「常若」と書かれ、神社神道にある言葉で「不朽の名作でありたい」と願い名づけられた商品です。農林大臣賞・水産庁長官賞・各地知事賞等の名誉を数多く受賞し、由来通り50年を超えたロングセラー商品となっています。

それからの松前屋

昭和29年
「太白おぼろ・白波」が農林大臣賞を受賞。「とこわか」発売。

昭和36年
大阪住吉区に新工場を建設し増産体制に入る。

昭和41年
「汐ふき とこわか」が農林大臣賞を受賞。

昭和51年
「汐ふき 古登富貴」が農林大臣賞を受賞。

平成3年
「松ヶ枝」発売。

平成14年
「柚子風味うなぎ那智黒煮」発売。

平成17年
「とはに」発売。

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