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野菜の旨味 [美味しい噺]
野菜を知ること
最近では野菜のソムリエである「ベジタブルマイスター」という人々が、マスコミによく顔をのぞかせている。その事自体については、良いとも悪いとも言えないが、味を本当に理解しているのだろうか・・・と心配さえしてしまう。
「あぁ、このトマト、昔の味がする!」と、とあるトマト品評の席で女性ベジタブルマイスターが喜んでいた。彼女は見たところまだ25歳前後。小さい頃の記憶だとすれば5歳から10歳に経験した味であり、20年から15年前ということになる。1990年ごろといえば促成栽培花盛りであり、今と殆ど変り無い。レストランでも「最近のトマトはアカンなぁ」と嘆いていた頃だ。当時、静岡県で緑健農法なる著しく味を濃縮させた野菜や果物を栽培する方法が密かに流行り、超一流の飲食店では競ってそれを使ってメニュー化させていたが、まさかそれを彼女が毎日食べていたとも思えない。「これは○×産の胡瓜だな」というような馬鹿げた審査は不要だろうが、知識と共に味についても正当な評価ができるようにと願うことが多い。
農家の方々は誰も手を抜いて物を作ってはいない。職業として野菜や果物を作っているプロは彼ら独特の美学によって成り立つ。私の知る限り、各農家の方々が置かれた立場の中で目いっぱいの努力をされているし、愛情も注いでいる。分かりやすく言うと、量販店に卸す野菜は安くなければならないし、高級料亭に納品するものは価格などどうでもよく、手間暇かけて贅沢に作りあげる。生業に応じた商品づくりであり、極めて正しい行いだ。それを単に安いトマトだからといって最初から美味しくないと決めつけることは危険であり、美味しく食べられる工夫をすることこそ、私たち消費者がこだわるべきところであることは間違いない。
さて、皆さんは「青菜」という落語のネタはご存知だろうか?私が中学生の時、最初に覚えた噺で、思い出深い内容だ。ストーリーはとても簡単。お金持ちのお家に庭の手入れに来ていたちょっと間抜けな植木屋が仕事の休憩時間になったとき、ご隠居さんにお礼かたがたお酒のお相手をしてほしいと誘われる。植木屋は断るはずもなく、夏の昼下がり、木陰にそよそよと風が吹く縁側に腰をかけ、お酒をいただくところから話は始まる。ここで出てくる酒は柳陰(やなぎかげ)。味醂に焼酎を加えて味を調節したもので、本名を「本直し」という。江戸時代には夏に井戸で冷やしたものを飲むことがお金持ちにとって粋な暑気払いであった。
料理はというと、最初は鯉の洗い。いたって貧乏な植木屋がそんな贅沢なものを口にするのは滅多となく、お酒も回って良い調子になった時、次にご隠居さんから「青菜食べてか?」と勧められて断るはずもない。「へえっ!こらまたえらいもんを!青菜ちゅうたら、もうし、大名菜言うて、…」「そんなアホなこといいなや。そんならちょっと待ちなはれ」と、ご隠居は手を叩いて「奥や!奥や!」と声をかける。次の間から出て来た奥方に青菜を出すようにと言う。少しして出てきた奥方が「鞍馬から牛若丸が出でまして名も九郎判官」と。それに応えてご隠居は「ああ、義経、義経」。つまり、奥方が台所に戻って青菜を探したら既に食べて無くなっていたのをそのまま伝えると、お客様に失礼になるため、鞍馬から牛若丸が出て来て菜(名)を食べて(九郎)しまったと伝えた。これに対しご隠居は、ではよしときなさいという意味で、義経、義経と答えたのである。この粋な会話に感激した植木屋は、その後、長屋に帰ってから一部始終を真似してドタバタの展開になってゆくくだりが面白い。
この噺の中に出る、青菜。実はそういう名前の野菜はなく、小松菜や法蓮草などの総称である。想像するに小松菜あたりが適切か。いつもは奥方がさっとお湯をして井戸の水で締めたものをキュッと絞って器に盛っているのだろう。シャキシャキとした歯ざわりが心地よく、噛めば噛むほどに美味さが広がり、冷やの酒とは最高の相性を奏でる。この味付けには醤油というのが一般的だろうが、そんな洒落た老夫婦だからきっと違うと私は考えた。有機栽培の小松菜(当時は有機のみ)はほんのりとした苦みがあり、それは潮に通じる。よって海水を煮つめた水塩を茹でた青菜にさらりとかければ、今の時代では考えられないほど濃厚で清廉な味わいが口に広がってゆくに違いない。太陽の光をしっかりと浴び、農薬もなく育てられた青菜がもつ本来の味を引き立たせるのも、海の味そのものの力であり、役目でもあるのだ。それが昆布の味をほんのりと加えたものならば、より一層素晴らしい世界が広がるだろう。思いを馳せるだけでもワクワクしてしまう。
野菜の勉強するのも良いのだが、土のこと、空気のこと、太陽のこと、水のことに思いを馳せつつ、旨い塩をもって知識と味覚を重ね合わせて記憶させてこそ野菜への礼儀というものだろう。お百姓さんは、ずっとそんな生活をして活き活きと暮らしていらっしゃるのだ。 ベジタブルマイスターの肩書きだけ欲しくて表面だけの野菜をかじるのは、もう「義経、義経」。
中村 新
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昆布で美味い [美味しい噺]
落語の中に「甘きもの食べさす人に油断すな」という台詞がある。丁稚が御寮人さんの差し出す菓子に釣られて、ついつい旦那さんの秘密をしゃべってしまい、自戒の念で、ふとつぶやく言葉だ。この「悋気(りんき)の独楽」と言うネタには、幼い丁稚の素直な心を面白く表現されたところが随所に見られ、趣の深い笑いを誘ってくれる。子供の頃は塩味の強いものより甘みのあるものが美味しく、それは非常に魅力的。正に甘きものは美味きものであり、その語源となっていることは頷ける。砂糖がまだ薬屋で売られていた江戸時代から一転、文明開化の頃より砂糖は一気に世に出回ることになるのだが、この噺はそういった世相を上手に反映したものと言えよう。 時代の変遷は味の変遷でもある。辛いものが流行ったかと思えば、こってりとしたものが流行ることもある。ただ、こういう刺激的な味は短絡的かつ一時的な変化であることに対して、明治時代の砂糖が安く手に入るようになったという時代は、日本人が甘さというものに溺れ始めた「元年」と言い換えることも可能だろう。このころに生み出された料理として不動の地位を築いたのはすき焼きであり、その一回に使用する砂糖の量は半端ではない。これを機にわたしたちは「砂糖で甘い=美味い」に没頭しはじめる。そして1970年代、高度経済成長を象徴する万能旨味調味料、通称「化学調味料」の登場で、味そのものが「砂糖甘くて美味い」から「鋭利なグルタミン酸味で美味い」に舵を切り始めた。その結果、「何となく味がたりないなぁ」となった場合に助け舟のように頼るようになる。
ご存知のように昆布のうまみは自然なグルタミン酸。化学的に作られたものではないので、味が柔らかい。既述の「鋭利」さとは大きく異なり、旨味素材としての働きは、主素材の裏側に回る味、つまり後押しする役目だ。ほんのりと甘く、舌全体で感じなければならない淡い酸味、そしてかすかな濃度をもつ昆布の旨味は決して目立たないのだが、無くてはならない味である。カツオの旨味であるイノシン酸と重なるとその力は力強く感じるようになり、塩分を強く要求する関東以北の人たちにとってはこれが旨味となる。エスカレートすると昆布の力を必要とせず、かつお節と塩だけで調理しているところも少なくないが、これは塩味に頼る調理を基本とする地域、つまり煮ものや焼き物がメインの狩猟民族的な味をベースとしている。つまり前に出る味である。これに対し昆布出しは野菜をさっと煮上げたり、淡い吸い物のベースを作る。よって後押しなのである。このそこはかとなく香り、力強くかつ細やかな昆布の旨味はどことなく塩分を感じさせるところがあって、薄味と言われる懐石料理を限りなく美味しく感じさせている裏技が昆布の旨味と言ってよい。この旨味を生かすも殺すもこれに相乗りする塩分の量にかかり、これがプロの塩梅なのだ。
只今から実験をしてみたい。これをご覧になっている方々も一緒に想像実験してほしい。
ここに、2枚の皿がある。1枚には何もない。もう1枚には極めて薄い鯛(鮮度は抜群)が敷き詰めてある。まぁ、カルパッチョのようなものだ。双方に軽くミネラル豊富で美味しいお塩を降るとしよう。それを上からペロリと舐めてほしい。「そんなもん、味が違うのあたりまえやがな!」とおっしゃるだろうが、もっと細やかに考えてみてほしい。片方は塩、それもミネラル塩でそれだけでも旨い。だから塩で旨い。ところが、片方は鯛がもっているアミノ酸と塩分、それに水分が重なりほんわり美味しい。つまり旨味で美味い。
「塩で旨いと旨味で美味い」これをしっかり利きとれるかどうかが今の日本人に与えられている命題だと断言して良い。何でもどんどんお塩を振って塩味で食べると健康に害が生まれるということはさておき、そんな乱暴な味を美味しいとは言ってほしくないのだ。そういう輩は噛まない。ごくりとのどを通す。飲み込むので舌にしか味は触れない。それで何が美味いと言えようか。私たちには歯があり、噛むことで人としての営みを続けてゆく動物だ。その行為そのものが生まれてこのかたずっと生きてこられた証であり、「しみじみ美味しい」ものを食べられるご褒美でもある。だから昆布の旨味が生きるとよく理解してもらいたい。
ちなみに先ほどの丁稚さんは陰で旦那さんからも美味しいものをもらっていたから秘密を隠し通せていたのだが、美味しいもので閉じられた口を美味しいもので開かせるのだから面白い。今度は細やかな昆布の旨味で笑顔の口を開かせたいものである。
中村 新
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